三菱重工①|三菱グループとは
概要

三菱重工業(三菱重工)は、三菱グループを代表する中核企業の一つで、日本を代表する総合重工業メーカーです。三菱UFJ銀行、三菱商事と並び「三菱御三家」と称され、旧三菱財閥から続く強固な企業連合の中心的存在として君臨しています。
売上高は約4兆6,000億円(2023年度)、従業員数はグループ全体で約8万人。川崎重工業、IHIと並ぶ「日本の三大重工業」企業の一角であり、事業規模・内容ともに国内首位の重工メーカーです。その巨大な規模と影響力から「三菱は国家なり」との言葉まで生まれました。三菱重工自身も、国の発展を支える使命感を持って事業を展開してきました。
ちなみに、三菱鉛筆は三菱グループとは全く関係のない別の企業で、偶然にも名前とロゴが似ているだけです。詳しくはこちら
参考サイト
- 三菱グループサイト:https://www.mitsubishi.com/ja/
- 三菱重工:https://www.mhi.com/jp
- 東洋経済:三菱財閥の記事一覧
- Wiki:三菱財閥
三菱の名前とスリーダイヤの由来
あの有名なスリーダイヤロゴは、土佐藩主・山内家の家紋「三ツ柏」(三枚の柏葉)と、岩崎家の家紋「重ね三階菱」を組み合わせたものです。
「三菱」(Mitsubishi)という社名とスリーダイヤのロゴマークが誕生したのは、明治時代のことです。創業者の岩崎弥太郎は土佐藩の出身で、土佐藩が開いた海運商社「九十九商会(つくも商会)」の経営を任されて事業を始めました。船舶の帆に付ける社旗として、弥太郎はまず土佐藩主・山内家の家紋である三枚の柏葉紋「三ツ柏」を図案化して用いています。
その後、土佐藩から事業を引き継いだ弥太郎は、自身の岩崎家の家紋「三階菱(重ね三階菱)」と組み合わせて新しい社章を考案しました。これが現在のスリーダイヤ(三菱)マークの原型であり、「三菱」という社名の由来にもなりました(「三菱」は漢字で「三つの菱形=ダイヤ」を意味します。「菱」は水草のヒシの実のことで、その形から菱形(ダイヤ形)を指します)。
創業家
- 岩崎彌太郎(やたろう):創業者(天保5年|1835年生まれ)
- 岩崎彌次郎(やじろう):彌太郎の父|甲斐武田氏の末裔 小野 美和:彌太郎の母|医師の娘
- 岩崎彌之助(やのすけ):彌太郎の弟(2代目)
- 岩崎 早苗子:彌之助の妻。後藤象二郎の娘
- 岩崎 久彌(ひさや):彌太郎の子(3代目)
- 岩崎小彌太(こやた):彌之助の子(4代目)

岩崎彌太郎

岩崎彌之助

岩崎 久彌

岩崎小彌太
*出所:国立国会図書館
三菱財閥と重工の誕生
岩崎彌太郎は1985年、土佐国安芸郡に生まれました。幼少期から学問に励み、吉田東洋が開いた塾に通うことでその知識を深めました。後に、彌太郎は後藤象二郎の弟子となり、彼の影響を受けて土佐藩での役割を拡大していきました。
その後、彌太郎は土佐藩の開成館長崎商会の窓口となり、この経験を通じて商業の基盤を築いていきました。彼は坂本龍馬とも交流があり、いろは丸事件での賠償金を受け取るなど、歴史的な事件にも関わりました。
やがて、彌太郎は土佐藩の九十九商会を受け継ぎ、その経営に携わるようになります。これを機に、彼は国から台湾出兵の物資輸送の仕事を請け負い、政府との強固な関係を築きました。この関係を活かし、彌太郎は海運業で大きな成功を収め、さらに鉱山業、造船業、為替業務、保険業務といった多角的な事業展開を進めていきました。これが三菱グループの基礎となっていきます。
しかし、時代の流れと共に反三菱財閥勢力の共同運輸が海運事業に進出してきます。運賃の値下げ競争が激化する中、政府から長崎造船局を借り受け長崎造船所を作ります。これが後の三菱重工の誕生へとつながります。そんな中彌太郎が他界。弟の彌之助が三菱を引っ張ることになります。共同運輸との争いの結果、三菱は共同運輸と合併することを決断。実質的に三菱が負けたことになります。これにより三菱は海運業という大きな商いを失い三菱は解体された形になります。
そんな中、彌之助が奮闘、戦争の時代には造船業が大いに繁栄し、三菱重工は空前の利益を上げました。また、政府から東京・丸の内周辺の土地を買い取り、事業のさらなる拡大を図りました。
しかし、戦後の財閥解体の波により、三菱重工は三つの会社に分割され、「三菱」を名乗ることができなくなります。それでも、その後の規制緩和により、再び統合が進められ、新たに「三菱重工業」として再出発を果たし、新生三菱重工が誕生しました。この再生は、過去の栄光を取り戻しつつ、未来に向けたさらなる成長を目指す新たな一歩を示しています。
三菱重工業の歩み:創業から戦後まで
菱重工業の歴史は明治17年(1884年)にまで遡ります。この年、岩崎弥太郎および弟の岩崎弥之助ら岩崎家は、政府から長崎造船局(旧長崎製鉄所)の経営を任され、「長崎造船所」として本格的に造船事業を開始しました。1887年には長崎造船所の施設一切を政府から払い下げ受け、岩崎家の経営基盤を固めます。
その後、事業の発展に伴い、1917年には三菱合資会社(岩崎家の本社組織)から造船部門が独立し、三菱造船株式会社(初代)が設立されました。これにより造船業が三菱の中核事業として確立されます。
三菱はさらに事業の多角化を進め、神戸造船所から電機製作所を分離して三菱電機を設立するなど、関連事業を次々と独立させました。こうした分社化と合理化の流れの中で、旧三菱財閥4代目総帥の岩崎小弥太は、造船事業と航空機事業を再統合する決断を下します。
1934年4月、三菱造船は社名を「三菱重工業」(初代)に改称し、続いて同年6月には三菱航空機(初代)を合併しました。このとき社名に用いられた「重工業(Heavy Industries)」という言葉は、小弥太自身が英語から着想を得て作った造語とされています。
戦前期の飛躍
三菱重工業(初代)は、戦前期の日本において国家の軍需増強と共に飛躍的な発展を遂げました。長崎造船所では日本海軍の戦艦「武蔵」の建造を担当し、三菱重工傘下の三菱航空機は零式艦上戦闘機(零戦)の設計・製造を手がけるなど、海軍向けの艦船・航空機製造の中心的企業となりました。
その結果、太平洋戦争開戦までに三菱重工の造船能力(軍艦建造トン数)は創業当初の10倍以上、戦車の生産台数は200倍以上、資本金は20倍以上に膨れ上がったとされています。当時の三菱重工は日本最大の民間企業であり、日本軍需産業の中核を担っていたのです。
しかし、1945年の敗戦により三菱重工にも大きな転機が訪れます。GHQ占領下での財閥解体政策により、三菱重工業は解体・分割を命じられました。
1950年(昭和25年)、三菱重工は地域ごとに東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業の3社に分割され、それぞれ独立した経営を開始します。この際、一時は「三菱」の社名使用も禁止されましたが、1952年に占領が終わると社名の「三菱」復活が認められ、3社はそれぞれ三菱日本重工業、三菱造船(2代目)、新三菱重工業と改称しました。
再統合と復活
高度経済成長期に入り重工業の需要が高まる中、分割された3社を再統合する動きが起こります。旧財閥の復活を懸念する声も上がりましたが、他の三菱グループ各社の協力も得て計画が進み、1964年に東・中・西の3社は合併して現在の三菱重工業株式会社(2代目)が誕生しました。
戦後の再統合により三菱重工は日本最大規模の総合重工メーカーとして復活し、国の高度成長を支える重厚長大型産業の中心企業として再出発します。その後も事業再編は続き、1970年には自動車部門を独立させて三菱自動車工業を設立し、さらに近年の2018年には造船部門を子会社の三菱造船(3代目)として分社化するなど、時代に応じた組織再編を行っています。
主要事業領域
エネルギー分野 – 火力・原子力発電プラント、風力・地熱などの発電設備、各種タービン・ボイラー等
社会インフラ分野 – 化学プラント、産業用機械設備、環境装置、鉄道車両・軌道システム
航空・宇宙分野 – 民間旅客機(ボーイング機向け部品製造等)、戦闘機などの航空機、H-IIAロケットに代表される宇宙用ロケット・衛星打上げ機
防衛分野 – 艦艇・潜水艦などの船舶、戦車・装甲車、ミサイル誘導兵器など、防衛省向け装備品全般(防衛産業における国内最大手)
輸送機械分野 – 商船・タンカーなど各種船舶の建造、航空エンジン開発、トラック・特殊車両、物流・搬送機器など
生活産業機器分野 – エレベーター・エスカレーター、空調機器(家庭用・業務用エアコン)、冷凍・冷蔵機器、フォークリフトなど
発電所から船・飛行機、さらにはミサイルやエアコンに至るまで、三菱重工の手掛ける製品は実に多岐にわたります。同社は防衛省への納入額が日本企業で第1位の実績を持ち、世界でも有数の総合防衛産業企業です。三菱重工の歴代経営者は「三菱重工が防衛産業で日本の役に立てなければ存在意義がない」という強い使命感を語っており、実際に戦後日本の防衛力整備において中核的な存在となっています。
また、エネルギー・社会インフラ分野でも国内外の大型プロジェクトを多数担い、日本の経済発展と生活向上を下支えしてきました。
三菱グループの概要
- グループ企業4,000社以上、87万人以上
- 保有資産432兆円(国の資産の6割以上)
- 商社、銀行、重工業、保険、電機、自動車、石油、素材などあらゆる分野
- 御三家(三菱UFJ銀行,三菱重工,三菱商事)
三菱の名前が入っている企業(三菱鉛筆除く)
- 三菱化工機
- 三菱ガス化学
- 三菱ケミカルグループ
- 三菱地所
- 三菱自動車工業
- 三菱重工業
- 三菱商事
- 三菱製鋼
- 三菱製紙
- 三菱倉庫
- 三菱総合研究所
- 三菱電機
- 三菱ふそうトラック・バス
- 三菱マテリアル
- 三菱UFJ証券ホールディングス
- 三菱UFJ信託銀行
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ/三菱UFJ銀行
その他のグループ企業
- 三菱の名前が入っている企業
- 日本郵船
- ニコン
- ENEOS
- 小岩井農場
- キリン
- 東京海上日動
- AGC
- 明治安田生命保険
グループ一覧はこちら
三菱グループのトリビア
三菱のトップ27社が集まる金曜会
三菱グループの中核企業27社のトップが集まり、定期的に情報交換や戦略の共有を行う「金曜会」は、グループの結束力と協力関係を象徴する重要な会合です。
東京丸の内は三菱ムラと言われている
東京丸の内は三菱グループの主要企業が集中する地域であり、その影響力の大きさから「三菱ムラ」と称されています。
学問に貢献(成蹊学園、東京海洋大学)
三菱は、教育分野にも多大な貢献をしており、成蹊学園や東京海洋大学の支援を通じて学問の発展に寄与しています。
慶應義塾大学と深い交流があった
三菱グループは、福沢諭吉とも長い間深い交流を持ち、学術や研究の面でも強い結びつきを保ってきました。
美術品や歴史資料の収集でも有名で国宝も保有
美術品や歴史的資料の収集にも力を入れており、国宝に指定された貴重な文化財も多数保有しています。
三菱を支える三綱領
独立した企業の集まりである三菱グループを束ねる第四代社長岩崎小彌太が作った三菱の理念
経済価値、社会価値、環境価値を大切にせよということを3つにまとめています。
- 所期奉公:地球環境の維持にも貢献
- 処事光明:品格を持ち活動の公開、透明性を堅持
- 立業貿易:世界,宇宙的視野に立脚した事業展開






